昭和28年12月14日 衆議院 水産委員会

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参考人(漁業者) 宮内岸助
私たちが萩の港を出て李ラインへ行って位置を見るということは全然聞きもせぬし、また李ラインそのものもよう知らぬのであります。季ラインではあまり商売したのではありません。それだのに向うは李ラインの2マイルに入るといってつかまえた。私たちを向うの軍艦がつかまえて、別に李ラインでも何でもないから――その李ラインそのものすら、政府が行っちゃいかぬと言えば何も行きはしません。

私どもの萩の船は50トンもある大きな船じゃありませんから、台風が来ればよう行けぬから、李ラインより20~30マイル離れたところで私どもは商売しておったのであります。そこで操業中に韓国の軍隊が来ましたけれども、自分たちは李ラインヘは別に入っておらぬと思って安心して、逃げも隠れもせぬで商売しておったのであります。船もとられ、懲役にされる、そういう考えもない。それなら逃げも隠れもいたしますけれども……。それで木村さんと光栄丸の船長と一緒に乗ったのであります。そうして乗ったらどうなるのですか、明日帰れる、明日帰れるというので、別に懲役に行くとは全然思わなかったのであります。向うもそう言うのであります。

そのときの艦長がこう言われました。515の艦長であります。君たちは気の毒だ、日韓会談が――日韓会談もよう知りません。日韓会談が始まるから日本の政府は朝鮮の資産を要求する。朝鮮の資産はどうなんでありますか、何もわからないものですから問うたのでございます。気の毒だがお前らを人質にとるというのです。こう言って連れて行った。結局日韓会談が始まる前の日であります。

これは自分はよう知りません。むろん乗組員も知りません。そうしてつかまえられて行ってから、油はあるか、油はある。佐世保にいつの日か帰れるだろうと思っておった。とった魚だけはしょうがないから、腐ってもいいから日本に帰られるだろうからと思ったら、10日ばかりたってから、佐世保に帰るのじゃなくて、木浦の刑務所に行ったのであります。刑務所に行って――ちょっと調べがあるからといって着の身着のまま上つた、上って刑務所の扉口に行ってからわかった。初めは刑務所とはわからなかったが、見張りがあるから、これは刑務所じゃわいと思ったのであります。

実際こちらは、懲役からもどってから考えるんですが、われわれは自分の船で、平和な海で商売を一生懸命やって魚をとっておるのに、なぜ韓国につかまえられるのか、在外資産を要求するから――検事の論告でもそうであります。11月2日に検事の論告がありましたが、君らは気の毒だが、しかしお前たちは山田長政とちょうど同じた。山田長政はシャムを侵略し、これを征服した。昭和の初期において日本は満洲を侵略した。お前は吉田首相の命令を受けてこの韓国を侵略せんとして入ったから、ここにいるお前も懲役にしてやるというのです。